KANEKO MARI official website

2017.12.21

今から20年近く前の事。小学生のヤスタカ君はある雑誌に「将来を担うコンピュータープログラマー」という記事の写真でその他4人の大人と共に紹介された程の天才的な頭脳の持ち主である。数日後「このシンセサイザーは126の波でできていて云々、、 」 と あるレコーディングスタジオに入ってくるなり昨日手にしたという機材の説明をはじめたのだ。突然だったので、「坊や、こんにちは。お名前は?」 と 私が挨拶するの「あ、こんにちは。僕、行き当たりばったりで生きている妹尾です。」 思わず「じゃ、おばちゃんと一緒だ!私は金子マリ」 「ふーん。金子さん、その126の波の云々、、」と話はすべりだし私には理解不能な難しい話をするこの少年は 「ただもの」ではないぞ。しばし聞いて一段落間があいたときに「あれ、今日は学校おやすみ?」 ときくと、「あ、僕は小学校には通っていません。そしてこの波の組み合わせの云々、、」 とまた機材の説明が始まり「と、いうわけで、1日でこのシンセの構造がわかりました。」 天才といわれる人のものすごい集中力である。「へぇーっ、そうなんですか。おばちゃんには、さっぱりわからないけど、学校に行っていないなら今度遊びに来ませんか?家には君より2、3歳上の小学生がいるのよ。」と誘うと「いやー、僕はなかなか人と打ち解けられないんで、遊びに行くかはわかりません。」 見かけは7、8歳なのに語り口はそこら辺の大人よりしっかりしているし自分の意見もしっかり伝えることが出きるなんてすごい子供だな!「でもね、うちの小学生は誰とでもすぐに友達になる天才よ。」 というと「考えてみます。」 私はもうこの少年のとりこになっていた。その時同席していたあるギタリストが彼のシンセに持ち合わせていたなんかの漫画の小さいシールを貼ったと同時に「勝手に貼らないでくださいっ。」 と人差し指でシールを指差してムッとしたので「そうよねぇ、いやだよね。」といいながら私がシールを剥がそうとすると「あ、勝手に剥がさないでくださいっ。」 と真剣に思いがけないことを言うので思わず笑ってしまうとそれからはしばらく無言で機材とにらめっこをしている。そのあいだ彼の父親は「ヤスタカ君、君は素晴らしい頭脳の持ち主だな。すごいな、ほんまにすごいな。」 と何度も少年を褒め称えると、スタジオを出ていった。そのうち ドラムセットが気に入ったらしく、素手で叩き始めたので、スティックを買ってきて「怪我をするよ。あぶないからこれでたたきなさいね。これはあなたにあげるよ。」 と手渡すと私の前まできて「おばちゃん、ありがとう!」
と深々と頭を下げた。なんて素直で正直な、この頃はあまり見かけない子供らしいかわいい坊や。「どういたしまして。」
その日からあっというまに時は過ぎ 29歳になりました。という彼から今朝、連絡があった。
嫌な予感は的中してしまった。闘病2年いや、3年か?今年の5月に大阪春一番の控え室を訪ねてくださり、来年はいよいよ復帰すると元気で語っていた
weeping harp 妹尾
(妹尾隆一郎)氏 の訃報であった。
「お目にかかって生前 付き合いいただいた方々に感謝のご挨拶をするところですが、電話ですみません。」
と、闘病などの話をひとしきり。

妹尾さんは現代の 平賀源内 とも呼ぶべき
博学でマイペースで活動的な類まれな学者のようなブルースマンだ。そのハープは一緒にステージに立ったた時はもちろん、ライヴ録音を聞いてみると更にそのダイナミックかつ繊細な音色に聞き入ってしまう。自由で分け隔てがなく、マイペースだが優しい 大好きな先輩。日本中ハープ片手に旅してほとんどのライブハウスは妹尾さんが開拓していったと言っても過言ではないだろう。
もっともっと教えて欲しいことがあった
下北沢の通りで出会い頭にわからないことを質問すると立ち話でも納得行くまで1、2時間もかけて丁寧に答えてくれた。科学 歴史
どんなことでも詳しく知っている。
今年は大事な先輩が何人も逝ってしまった。
困っている。ほんとに困ってしまう。

電話を切ろうとするとヤスタカ君が「あとひとつだけいいですか?あの時にいただいたドラムスティック今も持っています。」
妹尾さん
ヤスタカ君
嬉しくて愛しくて そして
悲しい 不思議な涙ががこぼれました。

きっといつかまた、あえるね!

2017.12.21


2017.11.10

貴女がやって来て今日で18日が経ちました。誰でも歳を経て生まれたばかりの幼な子を見るときっと、こう思うのでしょうね。「この子は選ばれた子である。」というようなことですが、。
私は手放しに愛でていたいのです。
名付けた両親もきっとその名に決めたことが偶然ではなかったのだと、10数年経ってわかるでしょう!
その名が、彼女に相応しいネーミングであった事を。
この幼な子は もうすでに自分自身ですべてを解決しようと一生懸命です。
そしてこんな私の願いをこれを人々は 老婆心
と呼ぶのでしょう!
幸 も 富もすべて一般的でありますように。そう、人は人それぞれにカンジカタが違うのだよと。変な言い方だけど そんなに 念を入れると貴女は嫉妬深くなってしまい長い時間をその是正にかけることにならいかと。

昨夜この腕に抱かれていたあなたから 今日初めて離れていた私にある電波のようなものがとどいたと感じました。
そして今日からあなたに手紙を書く事にしたのです。

私は貴女がどんなにか愛されているときも、なぜだか疎外されてると感じてしまうときも
そして悲しみに暮れてしまうときも

貴女の事
この身体が朽ちてしまった後もずっと見守り続けましょう。

無垢な貴女の生命よ、永遠なれ!



2017.6.3

何らかの行動を起こす時、一瞬でも「ん?」と思ったらもう一度頭の中も身体の様子もじっくりと検証すべきである。それから動く。
大人とはそういうものだ。

50年前に1回目、29年前、19年前そして3日前。
4回とも右足。
当時の心模様を思い返してみるとどの時も頑張って頑張って友だちができないあの小学校へ、友人の家族と苦手なキャンプ場へ、看病の甲斐なく逝ってしまった母に代わって金子を動かす日々へと、行かねばならぬ が 本当は行きたくない しかし 行くしかないと先の見えない不安の海に飲み込まれ骨は折れるわ免疫力の著しい低下で身体の内側で感染はするわ毒虫に刺されて片足が麻痺するわで 歩けなくなった。

しかし、この4回目はどうだ?久しぶりに晴れ晴れとした心で張り切って留守の間のほこりを一掃したいと乗った70cmの台からバランス崩して掃除機とともに仰向けで大の字のまま落ちたのだ。誰もいない部屋で20分は動けなかった。少しずつ少しずつ動いてみると背中は強く打っただけのようだ。立ち上がろうとしたら痛くて右足がつけない。骨折ならもっと痛いのは知っているから捻挫だなと。
  老化。明らかに 老化。思い知りなさい。
こんな痛い思いをしなくては、わからないんだ 、愚かだよね。
痛くて立てないが、ん?よーし、今は無理せずにいようと その時を待つことに。その時がどれくらいで訪れるかな?セッパつまったらこの右足をついてみるはず。今日は水分摂ってなかったなー。よかったのかなー?ーーー?立てなかったらどうするのー?

床にペタンとしてたら 眠っちゃって?た!アレ2時間も経ってる!
そして やっと訪れたよ!セッパつまったよ!さあ、いまこそ立ち上がってみるのだ。金子右足ついて見てーーー!
ヒヤーダメだ痛いっセッパーセッっっっ!、、パっつ!
アレ? 膝であるいてる。その手、てか 膝ね膝だね。なんだなんだ心配しなくったって、勝手にこうやって前に進むんだよねー、知らなかった!ね、大したもんだね。捨てたもんじゃないよ。ねえ?

そして 3日が過ぎた。もう踏み台には上がりません。
誰かに会いたいなー。とほほ。

 

2017.5.28

瞬く間に時が過ぎた訳ではない。
1年3か月前迄だって同じ様にバタバタと毎日は過ぎていた。
正直言うと、動き続ける事になんとか付いて行ってる感じの日々に心浄土を見失い、従ってブログが書ける訳は無かったのだ。

2017年上半期はよく働いた。特にこの5月は家に帰れた日は6日間で後半は久しぶりのヨーロッパへ。昨年5月から何度か演ったギタリスト萩原信義氏の指導のもと浅川マキさんのナンバーを歌う「浅川マキを忘れない。」というセッションの締めくくり公演のために リヨン ダブリン 、ロンドンを訪れた。フランスもアイルランドも初めての土地だった。

浅川マキ 1960年代後半、東京のアンダーグラウンドの世界を確立した1人であった。西洋のsound、 4beat 8beatに日本語を如何に乗せていくかを追求し、更にbeatを超えて 歌う事 の概念の成立に生涯をかけた。そして誰よりも 女であることを意識した歌手である。

しかし彼女の作品は同じ女性であって 女 でいることより母となった私にも私自身を表現できると感じる秀作であり、全く異質な歌声であっても歌い継ぐ意義があると思えるようになった。
「マキの歌はマキにしか唄えない。」と多くの人が言う。
もちろん、あの世界あの空気感はマキさんだけのものである。
私が歌う事は無意味だという声もあるだろう。
「マリちゃん、あなたなりでいいのよ。歌って頂戴。」と20歳の私に言って下さってから40有余年かかってやっと、やっとです。
マキさん、私は 浅川マキを忘れない。

 

2015. 9.30
新大阪から東京へ帰る時、お腹もすいていないのに買ってしまうのが「八角弁当」。各地で駅弁を食べてきた私が日本一であると大絶賛、太鼓判、誰にも頼まれておりませんが、数年前JRが各地の名産駅弁を閉め出し自社製品の弁当に切り替えたときのわたしのサビシサは、昨日の結婚発表で死んでまいたいと嘆き悲しむ、福山なんちゃら君のフャンの方々以上だったかもしれないです。が、でしたがと過去完了形か過去形のどちらかはわからないのですが、またまたこのお弁当を新大阪駅構内で見つけたときのヨロコビはあきらめかけていた中秋の名月がふと見上げた夜空に清々と耀いているのを見た今年の十五夜の夕べよりも嬉しい嬉しい出来事でした。
日替わり定食のようにやるせなく悲しい毎日が長いこと続いていた今年も後3ヶ月で終わろうとしています。あれ、大変だっ!! 品川に着きます。

2015.9.30
2015. 7.9

そういう年回りなんだな。なんていう人もいるが、それにしても悲しい別れが続きすぎるではないか!?

他人がなんと言おうが、自分を信じてやりたいことを貫き通したいといつもマイペースな速度で石田長生は歩いていた。
思いがけぬ病にも屈することなく必ず直して見せると4ヶ月飲まず食わずの身体を頑丈な精神で維持できるのはそばにいてくれる人の助けがあればこそだと更に闘志が沸いたことだろう。

本年度に入ってから金子は長いこと途方にくれていた。
少女の頃のようにどこまでも続く堤防の上を歩いているような殺風景な景色に溶け込んだ灰色と深ミドリに水色を少し加えたような色の空の一部になっているような毎日に朽ちていったっていいじゃないとさえ思っていた。
突破口を探すも見つからず無為な一日をすごすごとに自分に無関心になっていった。

石やん容態急変!?
なにーっ、治療法を変えて順調にいってるんじゃなかったのか!?
ど、ど、ど、どういうことなのか?とにかく1週間分の衣類をトランクに、朝をまち、非常ベルが鳴り響くマリは大阪へ。
久々に勝手にからだが動いていた。
病院に着くと少しうろたえてベッドの上で落ち着かない様子だが意識を取り戻していた石やんにホッと胸を撫で下ろした。得たいの知れない影を追い払うかのようにくるしい呼吸にもめげず、あれこれ思い付いたことをやっては更に呼吸が乱れていく。震えなくなった声帯が絞り出す声でそれでもたくさんおしゃべりもでき、ひと安心できた。帰り道彼の胸のうちを察すると涙が溢れていた。オレハヤルゾと頑張り続けてきた日々にピリオドを打たねばならぬのか?襲いかかる不安を払い除け生きることを貫こうと必死な石やん。どうか石やんが心浄土にその時を迎えられますようにと明日もその気持ちを言葉にできないこの祈りが伝わりますように。
翌日に訪ねると既にえーっ!?すでに昏睡状態に陥っているではないか?ウワぁーっ!?もしかしたらこのまま目覚めないとかあるのだろうか?オレハナオス石やんの意志は今もこの頭脳に刻み込まれているのか?残ったエネルギーが悪い念となり彼を苦しめないだろうか?それから数時間たって昨日と別人のような石やんが、目覚めてその後数分たって自分を取り戻しつつ石やんは私になにか語りかけようとしているが言葉にならない。起き上がり私の目をジーっと見て「ありがとうマリちゃんありがとう!」と言ったようだ。そして数時間後に昏睡したまま次のドアを越えたのだった。

私はこの40数年間の付き合いの中で感じたままに随分と過激に私の意見を石やんにぶつけてきた。1度など「今朝起きたら枕がぐっしょり濡れとったんや。」(笑)と私が言い過ぎてバツが悪いかもしれないとことを気遣ってくれるホントに優しい人だった。

絶対に私より長生きすると思えたのは、その称えている生命エネルギーの量はいつも満タンだったからだ。
独特の言い回しとノリとサウンドで構成された 石やん節 は俺の事を知ってくれ、オレはこういう人間だ。オレが石田長生だ〜と言いたい気持ちに溢れている。

石やんが最期を迎える間際に私はすごく特別な感覚に包まれた。
「何が起ころうとなんと言われようと自身が感じて決めたことはやり抜く。」
しかしいくらそうしたくてもできないことがあるのを初めて知った彼は残りのエネルギーを私に託し、「もっと自分に関心をもってやりたい事を貫くことを繋いでいってくれ。そういいたかったんだ。」
石やんが私の魂に一瞬にしてこの事をつたえたんだな。とすぐに理解できたのは、長男の出産直後に「あなたのものではありませんよ。」 誰かがいってくれたときと同じ感覚だったからだ。

もう途方にくれてはいなかった。

石やんに大ピンチを救って貰った!!

残りのエネルギーをもらって私は満タンな気分だ。石やんは心浄土な気持ちで次のステージへと向かったのだな。とも感じていた。

石やんありがとうございます。

私は自分を取り戻し歌っていくことを心に決めた。。

2015 7.9

2015. 2.15
この喪失感はなんだ!

決して親しかったわけではない友人の突然の訃報にこれ程までショックを受けるとは私自身ビックリしている。一緒に遊びにいったこともない。ケンカもしたことがない。40年近く、あっちはあっちでやってるなという程度の付き合いだったのに、自分の一部が削り取られたような衝撃だ。

何度も共演したね。
全く表現方法が違うから、歌うことに関して語り合った事はなかった。

どう生きるか?

こう生きてる。

ものすごくシンプルなそれでいて乱暴ではない同じ女としてのやり方の土台が実は似ていていつ会ってもへこたれないところがお互いの接点だったのかもしれない。

言葉は交わさないがいつも元気で張り切っている姿に共感していたのかもしれない。

ヒトは生まれてから次への扉を開けるまでの間、お互いに補いあっているのだ。なにを?
いやいや一人一人全員が全員をとにかく支えあっている。

おもいいがけず受けた波にへこたれまいともう呼吸をしていない彼女の亡骸はそれでも凛としていつものバーンとした光をたたえていた。

冷たくなってもイイ女っプリだよ。

こんな悲しい再会。とは感じなかった。

同じ空気を呼吸をしていないことがただ寂しかった。
会うたびに私達はいつも失いかけているなにかを補いあっていたんだね。

さぁ 先にいくよと潔い別れを告げているその魂は確かにここにいる。

シーナ、、、

2015,2,15
2015. 1.19
小正月

暮れからお正月15日位までは女は忙しい。
私は金子の本家の娘であり、後に跡取りとなったので親戚一同が集まる一年で一番忙しい一日が、幼い頃から年の始まり元旦であった。
昔のように七草や鏡開き等はもう行わないのだが、やれ町内会の新年会だなんだと、父の役割も一手に引き受けている昨今はやはり15日過ぎないとゆっくりする時間はない。去年お嫁さんが来てくれて、これまた気の利く嫁で元旦などは本当に助かった。家族が増えただけで嬉しかったのに、何も言わなくとも自分の裁量で知らないうちに事をすませてくれる同類が増えたことの有り難さに思わず長男を拝んでしまった。(笑)
私がいなくなったら後は頼むぞよと、小さく心の中で呟いた。
今日は懐かしい時間の経ち方をした1日だった。暖かかったせいであろうか
太陽と同じ速度で家事が片付き夜七時半、鴨やきをあてに熱燗をいただき、ざるそばを注文、このぶんだと10時に床につけるのかな?そういう暮らしを今年からは心がけたいなとふと思ったのではあるが、今夜の執心ちゃうちゃう就寝時間にこの一年の計の成功がかかっているのだ。
流れに任せていてはいけないぜ、姉さんと岩田に初めて意見されたように感じた。

2015,1,19
  m
2014. 12.6
今夜は寒い。素敵な暖簾に誘われるままに ついふらっと、一見で入ってみたら見習いだけでも三人いるような料理屋だ。
よーし、1日に還暦を迎えて、先輩後輩家族に祝ってもらった余韻覚め遣らぬ今夜は鯛づくしといこう。
お造りに鯛の文字は見えないが、ん?甘鯛のちり蒸しこれこれ、えーと、焼き物は、きんき か、よしこれもいこう!しかし、一人分でお釣りが来るしか持ち合わせがない、っていうより、こういうところに誘ってくれる彼がいないことを 愛でている。
こんな風にたった一人鯛で私自身を祝うことが嬉しいなんて、先週にはあんまりかんがえたことなかった私。

息子二人を授かってからは彼ら中心に時間をあわせて、もちろん自分が子場馴れ しなくてはといつもあせっていたな。

皆様、こんな、人気家業であると、還暦を迎えた今日はじめて知ることができたのは、面倒と言うだけしかできない隣で飲んでる女3人にこの店で遭遇して私は彼女たちに何を伝えられるかを考えるためなの?

ま、いいや、

甘鯛、蒸されてもなお私におめでとうといってくれてるような塩梅に、これからの余生の楽にいかないかもね、って予感を充満させてくれる食材に感謝だね。

生き甲斐

できた。

2014 12 6
2014. 10.28
エー気がつけば、もう11月とはなりまして。「9月末夜が明けたら、霜の月」って、、オソマツっ。しかしながら俳句はもちろん、川柳の題材にもならぬ日々が続いたのかと問わるれば、、、なに?え?わざとらしいこというな?そいつぁ失礼申しました、そんな泰平天下な毎日だったのならばながーくながく感じるはずだよ、ねぇ親分。ウワァヲーっと過ぎる毎日ではございましたが、一日単位のクォリティーが高かったかそれ以下だっかどうかなどは、最早 問題にはされておりません。むしろ 「それ」が誰? であろうが誰かがどこを思わざろうがお持ちなさいよいつでも夢を、星より密かに雨より優しくどこまでも行こうよ道は険しくとも明日という字は明るい日と書くのでありまして、当然なんぞは忘れ去られることとなり、一瞬とは永遠でございますよと友の云う、ご破算で願いましては時は金、鐘がなるのは長崎で金がうなりますカンエー寺釣瓶落としにおらが春、墓に布団はきせられずそこの子そこのけお馬が、と?お!、、、オーーーイ、誰かーッ、はや
くぅ止めとくれーー、、とばかりに心浄土を保ち続けちょいと充実感あふれたなどというあいまいなことではすまさぬぞ、正しく充実いたしましたる、「どっぷり金子な10月の日々」の前編、ながながくどくどと申して参りましたが、ちょうど時間となりまーした。次回本編乞うご期待、またのお運びお願いしまぁしてぇ、悪声なぁぁがぁぁらぁぁもぉう、つとぅめぇ〜ぇましょう。えーお後がよろしいようで、、。

2014.10.28

 

2014. 9.25
イッピーが来てから半月ぐらいたった。やっとあのこの性質(たち)がわかってきた。ずいぶん、ずぼらなとこもあるけど、ほとんどのとこはかわいいやつである。おなかがすいてきても一生懸命にやる。きをつけないと突然死するようなことにならないともかぎらない。しかし物騒な世の中だね。プレートのヒズミがたまって大地をゆるがすのなら、生きていく毎日に人にたまっていくものはなんだろう?ソーラーシステムでたまった電気を使うと、アンプがいい音すると言うはなしはなかなか奥が深そうだ。形さえなくなった魂も気楽で明るい生き方をした人のそれがいるところは洗濯物がよく乾くとかせいぜいそのくらいにしとおきたいものです。疲れとかたまると運悪いことが続く、何て言う人もいるね。ま兎に角、動いている以上なんかが溜まるのだと云う。
えぇいっ、鬱陶しい感じかする人、溜まってることを重さで感じる人、ため息がたまっちゃったひと、など様々な人々よ。

お待たせいたしました。
あと3日と迫りましたよー。お目出度い縁起物金子が、たっぶり7日間、めでたさのおすそわけとばかりに歌声をふりまくよーっ。

9/28〜10/5
京都富小路仏光寺下がる。
磔磔で待ってます。

2014.9.25

 

2014. 9.14
中洲ジャズフェスティバル出演するために博多に来ている。初めてスカイマーク航空機できたのだが、とてもリーズナブルで機内の座席などは今までのどこよりも良いと思う。エアバスとの問題で経営が破綻しそうだという話を聞いたが、今まで、独占に近い方法をとっていた他の航空会社にとっては迷惑な存在なのであろう。スカイマークさんこれからも使わせていただきますよー。夏のフェス三本目の中洲ジャズフェスは地元を盛り上げようと云う心意気をいつまで保てるか、毎年大変なご苦労とは思うけれど、初心を忘れずにガンバってほしいなと思いました。参加させていただき感謝です。今夜は渋谷さんと博多でもう一晩セッションです。風はすっかり秋です。

2014.9.14

 

2014. 8.27
ベトナム戦争が激化、多勢の人々が反戦を唱えるも政府に終わらせる気配はなかった、1969年8月、入場者40万人以上という空前絶後のロックフェスティバル「ウッドストック」は開催された。私は中学3年生、映画が上映された時は高1だったかもしれない。始まってからも問題は次々に起こるが、しかし、暴力沙汰、等は少なく、死者がでなかったのは反戦と平和を掲げたフェスティバルであっても奇跡だったのではないだろうか。その上、会場では出産した人が3名!?いたらしい。無事に生まれたその子達は今どこで何をしているのだろう?わたしにとっての野外フェスは、想像を絶する人数の観客と1つのステージで演奏するミュージシャンの思いが解け合って大空へ広がっていく。その下で集まった人々それぞれのその一日だけのドラマが繰り広げられていく、というものだ。
あれから40数年経ったこの日本では、あの頃でさえ対岸の火事であった戦争反対の意識等、ほとんどの日本人は考えたことさえないだろう。我が国は原爆を落とされた唯一の国だと知らない若者が増えている。私の世代でさえ戦争を知らないのだから、その子供たちが知らないのは無理からぬことだ。
それゆえに私は考える。全国の小学校の修学旅行は、広島の原爆ドームと史料館を訪ねることにするのはどうだろう?、大家族での暮らしがほとんどない現在、国、自治体の単位で戦争の悲惨さを子供たちに伝える必要があるのではないか。そこで戦争の悲惨さを見た子供たちにはじめて反戦の気持ちが芽生えるかもしれない。そういう経験をしてそこからでなければ「集団的自衛権」の行使賛成か反対かの議論等あり得ないのではないか?そうおもっている。
今年の夏、北海道と東京2ヶ所で夏フェスに参加した。東京で私が経験したのは、まず会場につく、楽屋にはいる、出演30分前にバスで7つあるステージのうちのどこか1つのステージサイドへ、演奏、終了後解散。という具合にただただ大量生産されたミュージシャンがベルトコンベアー式にライヴをこなしていくだけの、そこには主催者の考えは見当たらず、同時にたくさんのコンサートを広い場所でやっているだけという味気ない、人間同士のふれあい等ないものだった。
せめて「平和ボケ」のありがたさを感謝しあえる位でありたかったな、と。
今回私は 音楽に世代の壁はないことを伝えたいという「LIFE is GROOVE」セッションで歌えたことを誇りに思う。
古い人間かもしれないが、大いに問題意識を与えてくれた今の夏フェスに参加できたことを感謝します。

2014.8.27

 

2014. 8.15
久々の北海道。

さすがに広い空だなぁ。

気温も午後で21°と涼しい。
今回は次男KenKenバンマスの「Life is groove」で歌う。次男と北海道は25年ぶり、ん?もっとかな?
前回二人で千歳についたのはRCサクセションのコンサートに出演してから、パパと長男がJonny Louis&Char のファミリー達と一緒に待っている沖縄のお楽しみ旅行へとかけつけたんだったな。思えばずいぶんといろんなところへつれ歩いたなぁ。皆さま方にご迷惑もかけちゃったです。その次男も一人前になり、フェスに母親を歌手として呼べるようになったのだなぁと、母は素直に嬉しいどす。

あ、札幌のホテルに着きました。

2014.8.15

 

2014. 8.12
今夜、インデイアナポリスmotoGP第10戦を見た。
スベインの弱冠21歳マルケス10連勝してしまった。速い、速い。 しかし時速340kmのせめぎあいに、スゴいところに無理矢理パンッと将棋の王手みたいに入る。一時はトップにおどりでたヴァレンチノ・ロッシ。
わたしはここ10数年ロッシに首ったけである。いままで一度も勝ったことないインディアナポリスでの優勝目指したが、されど、果敢なアタックときれいな走りは衰えてはいない。悠々と3位におさまった。私はステージで使ってるタンバリンに大好きなロッシのサインをいただいたことがある。代わりに「金子な理由」私のCDを差し上げた。あー、また人間に生まれ変わったら、男になりたい。そしてライダーに。きっとなる。

2014.8.12

 

2014. 8.5
「平和なんだ。家とは全然違う。普通の平和な家族なんだよ。」と長男が初めて長岡の花火を観たときに訪ねた彼女の実家の感想だった。ふーむ、やっぱり家は普通じゃないよね。平和もなかったのかな。できるだけ普通にしてきたつもりだったけど、私にもわからない長男の気持ちを察することができてなかったのはショックだった。悪かったなと素直に思った。ご家族の皆さん総出で、お出迎え下さったんですね。想像通りのたたずまいのお家で、丸なすの蒸したもの、ずいきの酢味噌あえ、アユの塩焼き等々、地元の家庭料理をご馳走になり、信濃川河川の花火大会会場へと。「3尺玉」東京では規制もあり見たことのない大きな花火がつき次々上がる。川をはさんだ両側岸にものすごい人数が空を見上げてる。「今年は世界一」と豪語するのは「超大型ベスディアスハートマイン」だったかな?「ベスディアス大型ハートマイン」いや、両方ともあったような。ベスディアス火山噴火をイメージしたものすごい打ち上げ花火。あんなの見たことないな。素晴らしい、一晩で何千万、いや
もしかしたら1億円かも、そのお金を一晩で花火に変えて打ち上げる。すごい豪気だね。かっこいいよね。そういう使い方があってもいいよね。写真や言葉では表せないスゴさが美しさが花火にはある。来年も押し掛けていきたいな。これからもよろしく長いお付き合いを御願いいたします。ありがとうございました。

2014/8.5

 

2014. 8.3
今日は今春、我家へ嫁いでくれた長男の嫁が生まれ育った新潟県長岡市、彼女の実家へ暑中お見舞いに伺っている。かの山本五十六の出身地でもあるここ長岡では戦後、英霊の鎮魂を祈り、打ち上げたという、日本全国に花火大会数ある中で3本の指、ベスト3(方々によると世界一)の規模と美しさを誇る花火大会見物へのお誘いのままに、いそいそとでかけて来たのである。毎年8/2、3日に開催、今年は2日間で90万人もの見物客が訪れているらしい。新幹線。この40年間に乗り遅れたことは何度もある。が、最近は時間通り。いつもの要領で発車10分前に新幹線ホームに着いて悠々と指定座席に座っている。

つもりだった。
1時間前に東京駅について1時間前の指定に座って、「あのー、席、間違えていませんか?」いつも自分がしている質問を、誰かにされる事等、私に限ってあり得ないとまで思い込んでいた己の過信慢心を恥じつつ、間違えた1時間前の列車から発車時刻1分前にあわてて走り降りた。
何百回と通っている東京駅との40年の間、1度も入ったことのない初めての「待合室」で1時間やり過ごしてみよう。「ふーむ、知らぬ同士がただ待つから待合室か、これもよし。だ。な。」
お嫁さんのご両親もご家族もとても良いお人柄なことは結婚式でよーく存じ上げていたけれど、姑としての自分に未だ実感がないからだろうか、私らしい姑振るまいってどんなかなぁ、そんなこと考える必要何てないよね?このままでいいにきまってる、が、あれ緊張してる、ね?私。忙しい中、私のためによい座席をとってくれた列車に遅れないだけでもよかったな、と「脳トレ3」訓練中につき目と指先を3DSに奪われた形の私の脳裏いっぱいに浮かんだのは長岡駅で待っていてくれるはずの、気立ての良い嫁のいつもの元気な笑顔だ。時間通りにいくよ、待っててね。なぜかチョッとだけ心細く嫁を大いに頼りにしている「昼下りの姑」である。(次回ベスディアス大型スターマインの巻きに続く。)

2014.8.3

 

2014. 7.27
4日前、フジロック前夜奇跡の再結成復活ギグ!!と銘打った「SOOO BAAD REVUE」のライヴが渋谷DUOで行われた。「金子マリ&BUX BUNNY」が CBS SONYからニューミュージック第1弾としてデビューした同じ1976年に大阪のORANGE RECORDからまだ憧れだったL.A録音盤を引っ提げてデビューしたバンドであり、当時は東京にもほとんど無かったライブハウスが次々とオープンした頃でそのオープニングアクトの二本立ての対バンとか、丁度、YAMAHAが全国のボーリング場を買い取って店舗にして大々的にElectricGuitarやアンプの販売に力を入れ始めた時で、それに伴い、EASTWEST(優勝バンドはサザンオールスターズ)とか8.8ROCK DAYといったトーナメント式のアマチュアバンド合戦を全国で展開、今の夏のフェス並みに各地で予選大会のコンサートが開かれ、一足先にプロデビューした私は何回もゲストとして出演、そんなときの対バンでよく一緒になったのが、この「ソーバッドレビュー」だった。
今年の台風8号並みの、大旋風を巻き起こしあっという間に圧倒的な人気者になってなぜか当然のようにすぐ解散した人騒がせな集団だった。北京一、砂川正和、山岸潤史 、チャールズ清水、国府輝幸、石田長生、永本忠、ベーカー土居、と、各自、単品でもいつもだいたいその場の台風の目になってるパワーある人物が8人も集まっちゃって、1人1人の資質にしたがって自然にバランスよく役割がこなせてて、またその1人1人がこれでもかとばかりに張り切って、もう、煽る煽る。私はサブカルチャーというよりゲリラと呼ぶ方がふさわしいこのバンドの大ファンだった。もうほとんど追っかけ的に歌わない日は観に行ったものだ。最近のKenKenが ここんとこ「韻シスト」に惚れ込んでいるように。
解散コンサートは早稲田の大隈講堂だったと思う。
超満杯のファンは皆その解散を惜しんだんだ。
30年ぶりに集まった楽屋はあの頃と同じようにずっと笑い声や喚声の渦だった。その頃から弟のように思ってる砂川の姿が見えないなんて、ね。東京もこれで最後と言いながら大阪から君のお母さんが車椅子に乗って駆けつけてくれているよ。あー、まだかまだかと待っていると、フッと静かに客電が消えた。と、スクリーンの映像の中でアフリカンジャンベに命を叩きこんでいる砂川がいた。しばらくそのグルーヴと太鼓の音に魅了される。すると上手からその鼓動に合わせて踊りながら若い女性が表れた。センターでそのグルーヴを浴びて見事にダンスしているのは彼の愛娘20歳になった那由多ちゃんに違いない!北さんの演出だ!ナイスな幕開け!!そして「ソウル地下鉄」で始まった久しぶりのステージは若かった頃のまま、正直でその上何倍も優しくてそれぞれの過ごしてきた時間を感じて、そしてやっぱり、グッと来ちゃった。山岸、素晴らしいプレイでサウンドがグルーヴしてる。チャールズのvocalとメンバー紹介抜群!北さん、やっぱ、かっこいいな。これさ、大阪でやらないのは片手落ちじゃないかなー?
ねぇどう思う?阿部ちゃん?

2014.7.27

 

2014. 7.23
TV「はじめてのおつかい」を観たよ。いつもいつも思うのは、誉められたい気持ちはもちろんだけど、「やるといったことをやりとおす」という力は生まれつきみんな持っているということなんだろうという事です。今回はたった2歳11か月の坊やが、大きな橋を渡り、図書館で借りた本を返し新たに自分と妹の2冊を借りてから、お茶の葉っぱを軽いからとお母さんは言付けたのに、お父さんがいつも自動販売機で買っているものだと勘違い、缶入りを5本も買ってバッグに入れ、その上妹の靴下も買って無事に帰宅したのにはビっクリ!すごい、かしこいこがいるもんだねぇ、エライな。ほんとに偉いよー。よく無事に帰れたね。
その気持ちをなくさないようにしてやることが大人の大事な仕事ではないでしょうか?「負うた子に教えられ」ですね。

2014.7.23

 

2014. 7.20
何度も書き始めては途中であきらめる日が続いていた。松山から戻つたのも束の間、先週は名古屋、豊橋、松阪と旅は続いた。旅の徒然をと毎日書き始めたものの、特筆することの無い日々とは平穏な日々なのだと知る。私はいったい何を求めて生きてるのかな?
何かするたびに事件や事故が発生、それを乗り越えようと向かっていくことが好きなんだろか?そうしたいからしてるのかな?仕方なくそうするのか?等々、廻らせてるうちに、集合時間がやって来る、というような無責任な毎日だった。
昨夜は珍しく7時間も眠った。松阪の牛鍋美味しかったです。ご馳走さまでした。

2014.7.20

 


2014. 7.12
今 松山です。

石田長生が弾き語りをしている。

2nd ステージの始まり。

あっ呼ばれた。

2014 7.12

 

2014. 7.8
8888

末広がりだ〜!推定最大瞬間風速70キロ超大型台風8号と共にアカウント8888のその日はやってきたです!しかも今日は8日だす。 もう なにも言うことはない。私は祝福されているに違いない。しかしこんなに早く7777のあの日から8888のこの日が来るとは、、。もっと先だと思っていた金子はちょっとだけ、うろたえてる。んー、悔しいな〜、7777のあの日を越えるような高揚が感じられないです。ん?そうか、なるほどラッキー7ではなく「隅から隅までズ、ズずぃーっと」末広がりの縁起良さなんだにちがいないからだね。「イェーイ、ラッキー!」なんて軽い感じじゃなくて、こう、なんと言うか両手を足元から天に向かってゆっくりと大きく広げていくような縁起。「末広がりだし天まで届けぇーっ」とばかりにじわじわときたね、どうも。きたよっじわじわーっと。縁起の良い余韻がスーっと富士の裾野のようになだらかでどこまでが裾かわかんないように続く。「今生でのあなたの余生はずずずぃーっと臨終を迎えるその日迄めでたい日々があなたを待ってます。」と夕暮れのお日様が優しく私に語りかける。いい感じだ。念のため、もう一度心を開いて耳を澄ますよ。うん、間違いなくそういっている。ありがたいね、どうも、お日様が言うんだから私はやっぱりおめでたい金子なんだな。ちょっぴり恥ずかしいが今日から縁起がいいことのお裾分けができる。私は歌ってめでたさを皆さんに振り撒いていこう。そうそう心浄土な日々を過ごすためには 中庸であることを心がけねば。忘れませんよ。一人占めはしません。じゃんじゃん金子マリの縁起良い日々を振り撒きますよー。さぁ皆さん、歌を聴きにいって縁起の良い日々を手にいれよう! やっぱりウキウキだーっ。

2014.7.8

 

2014. 7.5
昨日今日と小淵沢に来ている。
ある先輩のお供で野菜畑を訪ねる、心浄土を願う旅になっている。

雨上がりの甲斐駒ヶ岳は美しく、心洗われる。

明日は下北沢音楽祭最終日
例年通りPM8:00スタート「風知空知」にて「ざ・打ち上げ」ライブがある。今年はguitarにおおはた雄一君と窪田晴男君を迎え、お贈りする。

さてさて そろそろ。ね!

2014.7.5

 

2014. 6. 30
今夜は音楽祭第一夜、バンマス、kenken率いる 「Life is Groove」オリジナルメンバーはムッシュと中学校3年生の山岸龍之介。このお2人、歳の嵳何と60歳。龍之介が今のムッシュの年を迎えるとき、ムッシュは135歳、音楽祭のテーマそのもの「異世代共存共鳴」はLifeIsGrooveなのだ。
そして今夜の対バンドは大阪出色のバンド 「韻シスト」。「韻シスト」 は drum,bass,Eg+2人のラッパーという編成で、音量もラップしてる内容がわかるように抑え、目立たぬようにリズムを操りGrooveとは?音楽するということは?を追求しているかなり高得点なバンドだ。20世紀のプラックシーンをソウルミュージックをよーく研究していて、ジャムが大好きで、ハーモニーこそが全てと踊るそのGROOVEは、10代の頃に知ったヤルセナイ恋心を打つ鼓動の色のよう。。

とても 素敵

下北沢音楽祭第一夜

優雅

2014.6.30

 

2014. 6. 29
7月に入るとすぐ、「下北沢音楽祭」である。私は毎年 グランドフィナーレ「ザ うちあげ」今年も7/6(日)20:00から 「風知空知」でお疲れさまを兼ねたライブがある。
音楽祭のテーマは「異世代共存共鳴」今から20年ぐらい前、地元の町会からライブハウス前で並ぶ若者たちのマナーの悪さに、ひいては、ライブハウスの姿勢に苦情が絶えなかった。例えば、ライブハウス前の公道にポイ捨てされたタバコ、ペットボトル、ライブ終了後大声で話す声で夜中まで眠れない等々。ライブハウス追放が叫ばれるほどに。
そんなおり、地元出身在住の金子マリに世田谷区から音楽祭をやってくれないかとのofferがあり、その旨、当時インディーズレーベルとライブハウス経営で急上昇中の10代からお世話になっている会社社長に相談、そして、テーマにそって、地元商店街青年部とライブハウスが協力しあって音楽祭を開催することになり、下北沢で生まれ育った者と他の土地から来て新しい下北沢の文化をつくりつつある者との交流が始まったわけである。
Char、忌野清志郎 も何度も参加してくれた。地元中学校のブラスバンド部とロックバントの共演という企画や小学生バンド出演などをとおして、ライブハウスと地元がお互いを認識して、背を向けあっていた者同士が睦まじくなっていきそれ以前の小さな催し物としてあった数回もカウントすると今年は第24回となった。
我が家は息子二人もミュージシャン、「異世代共存共鳴」代表であり、次男のkenkenは下北沢南口商店街が選んだアイコンとしても生まれ育った故郷、下北沢のあたたかさが冷めないようにと願っているお時間の許す皆様、是非音楽祭にお運びくださいませ。

2014.6.29

 

2014. 6. 25
7777

今日はHP訪問者のカウントがなんと縁起のよい7777を示していますよと、勉強不足をIT音痴と豪語する私に大事な時間を沢山費やして、私のHPを作成してくださっている方から連絡いただいた。
こいつぁ朝から縁起が、あ、イイワイー!
このお知らせだけで今日1日が満開のヒマワリ畑のように輝く1日になりますー。税務署に向かう足取りも軽くなり、納税オーィ納税とステップ踏みながらスタート!
次男が宮古島から帰ってきて、28年も付き合ってきたけど、日焼けしたとこ初めて見た。なんか息子のような気がしないな〜。なに?チリコンカルニが大好物だって!?そりゃ知らなかったなー、早速バスにのって材料を買いにいく。頭のなかは「セヴン、7、7、7
ななななななななぁー」天使の歌声が頭のなかで響いちゃってる。両手にいっぱいのお買い物もカルガール持って、お、すぐにバスが来るね!そりゃそうだよね、今日はなんの日?7777〜〜とエプロンきめて、お台所でメキシコのママさんのように 豆を煮る。雷がなってる。いいねー。大盛3杯も!食べるねー、え?すごくおいしい?喰いねえ喰いねえ江戸っ子だってね、神田の生まれよぅ、あれっもう5時か?そうそう今夜は下手うった友人エイドのボランティア演奏会だった。アイツもいい友達もって幸せだねー!行きましょういきましょう、こんな私でなにかのお役にたてるならエイド演奏会人達が沢山来てくださってよかったねー。やっぱり7777の1日だったー。アルゼンチンがナイジェリアに3ー2で勝ったの見届けて、縁起がよかった日を抱きながらオヤスミナサイ。(ぐう スヤラ ピー)(グウ すやら ピー)、 グゥグウぅ〜。

2014.6.25

 

2014. 6. 22
「蔵さんの歌が聴こえてくる街角」半年かがりで企画制作した、イベントが大入りの大盛況のうちに終了し、ホッと肩の荷を降ろす。沢山のお運びをいただきありがとうございました。
面倒なことかを一手にひきうけてくれた沢田節子さん感謝です。
久しぶりの再会がたくさんありました。
演奏だけに集中できなかったなぁ、と反省しきり。

西岡恭蔵という人物の「ひとかけら」を知った、そんな気持ちです。音楽することの、難しさ、素晴らしさを再確認。気がすむまで、1人で大反省会中な金子です。

2014.6.22

 

2014. 6. 16
昨日今日と自宅で家事に専念。
約束が2日もないことは希な事なので、大いに楽しんでいる。お天気も最高の青空。子供たちが幼かった頃のように、ゆったりと時間が過ぎていく。あの頃はそんな日常から解放されたい、早く舞台に立ちたいと焦ってばかりいたね。20代〜30代前半までのその毎日が今の心持ちだったらどんなに豊かに過ごせただろう!60歳になる頃が出産育児の時期ならもっと丁寧に子育てできるなぁと本気で思っている私。
台所、ガラス、鏡、など気になっているのに手が回らないところを綺麗にするのはなんと気持ちが良いのだろう!しかも誰にも誉められたり、しなくてもいい気分だよ。「こんな気持ちはじめてなのさぁぁ分けてあげたいぃーこのしあわせを〜〜」(ザ・スパイダース“なんとなくなんとなく”より)
一昨日まではホッコリとした幸せな日が3日4日続くと、自信のない私は人前に出ていくのがとてもつらかった。その上、芸を披露して人様に料金を頂戴するなんてこと、私のような無精者が無礼ではないか?こんなこと許されないのでは? 等々と愚にもつかない考えを散々巡らせてまで世の中に出るのが怖くて、仕事の入り時間ぎりぎりまで粘り、ハァーっそれっとやっとこさ重い腰をあげて社会へ出向く羽目に何度も何度もあったからだろう、「家でゆっくり過ごしてはいけない。すぐに出発できるようにしておく」頭の構造がずいぶん前にできあがってしまってからはゆったりとした休日は2度とは来たことがなかった。のに、それなのに昨日今日はドッブリと、浸ることができちゃってる!
ヒャッホーイャッホゥ私まだ浸れます〜。ふーむ、この感じは「ほれ、あれよ、あれ、」とすぐには出ない名前が1時間ぐらい経ったあと、急に頭のなかに浮かんだときと似てるね!誰かに伝えられなくても、たった1人の時でも「ヘッヘーヤッタゼィ、まだまだ脳みそ働いてるもんね」自問自答、自画自賛な充実感。この休日感もあの充実感だな。よくよく考えてみるとあんなに辛かった「独り暮らし」が身に付いてきたのかな?1人の部屋で充実感に浸る休日感を初めて味わったわけだもん。こりゃ「独り暮らし」故の「嬉しいことがもっともっとやってくるヤァヤァヤァ」なのかもね!バンザーイバンザーイ!ウキウキDa−!

2014.6.16

 

2014. 6. 15
440 第3土曜日 10年目に突入した定例ライブ。この私が月1回といえ10年続けてこられたのは今月で東京を去る一人の女性スタッフが私をリードしてきてくれたお陰。ホントは私がすべき事であっても、必ず連絡をくれて助けてくれた。感謝感謝であります。
J−SOULの女性歌手数人と知り合い、440に出演してもらって以来、私を慕ってくれることが嬉しくて調子に乗った金子は彼女たちと20〜30代の若者でごった返す“クラブ”で歌ったり、そこで、その後3年間以上毎月440の前座を努めてくれることになるMC.DAG-FORCEに出会う。、いつも疑問を抱えながらも素朴で素直でありたいとラッブする24歳との出会いは、お互いがが失いかけていた「信頼」や「希望」を取り戻す一筋の灯りにもなった。
同じ音楽の土壌でありながら、溝は深まる一方だった若い世代との共通項を見つける場所として私にとって大きな意味を持つ440第3土曜日をいつまでつづけられるかはわからない。どこかで見かけてこの子はいいねと感じた若いミュージシャンに声をかける試みが少しでも長く続く為には自分を磨き続けることが一番大事だね。
ウヒャーっ今日は私の大好きな真夏日だ。水撒きたいな〜皆さんもよい一日を。

2014,6,15

 

2014. 6. 11
6月に入ってからも、前半は旅が続いていた。「心浄土な日々」を徒然にしたためて今日で丁度、1カ月になる。今日からは20日吉祥寺スターパインズカフェにて公演の「蔵さんの歌が聞こえてくる街角」と翌21日下北沢440で毎月第3土曜日に定期的に行ってきた5thのライブ10周年、の2日間をそっと思う心浄土な10日間となるだろう。蔵さんは歌手として一歩を踏み出した19歳のときに「こんなやり方もあるんだよ」と正に「君の窓から出ておいで」とばかりに私を関西のミュージシャンの森へとつれていってくれた人だ。そして440の10年間は私に歌うことを大事にしたいという心ががこの私にあることを教えてくれた私の聖地(どうしていちいち大層なんだよね?私は。)となった。

「スタッフ細胞は ♪ARIMAす。」
オーイ小保方さーん、裏方ぁさぁーんんんよー(三波春夫オーイ船形さんより)
そうです。小保方さん、私たちが何かを成さんとするときに、大事なのは決して表に出ず、支えてくれる善意に満ちたスタッフ細胞を持つ人達であり、もっと大事なのはそれを指示してくれる一般の方々なのです。あり?、調子出てきたね、金子ちゃん!

よーし、ハッスル、ハッスルと。今日も行ってきまーす。ってどこへ?

2014.6.11

 

2014. 6. 4
こんな 気分では 何をやっても うまくは行かないだろう。なぜこんな気分にさせられるような事に巻き込まれてしまうのだろう?

いつもこんなときには 自分を 振り返ってみることから始めてみる。今回の事態を引き起こすような言動や行動が私にあっただろうか?

確かに能動的ではなかった。その企画の制作費をきちんと聞くべきだった。
しかし、その事を差し引いても 自分には落ち度があるとは思えない。落ち度あるとしたら、然るべき方法をとらない彼だと見抜けなかった事ぐらいだ。

もう話す事はないと言ったのに、どうしても1度会って話したいという。
それでさえ、いいですよといってしまった自分は迂闊であった。あなた方は良くなかったと己が熟知している。

やはり見抜けなかった私が一番問題だったと、言うことか。

もう これ以上 こんな気分ではいられないと、横浜へ「東京吸盤ボーイズ」のアンビエントなら助けてくれるにちがいないと出かけてきた。思った通りだ。

簡単なミスが大きい間違いを起こしたことに私が嫌な気分になる必要はないと「心の交差点」では なぐさめをもらった。
今日は故ジョニー吉長の3回忌である。

2014.6.4

 

2014. 6. 3
「衣がえ」
を、私はいつから しなくなったのだろう?

この季節、皆「虫干し」もしていたなぁ。

気がつくと、亜熱帯化したせいか、冬でも夏でも同じようなものを来ている。昨日など、6月の北海道の十勝で、摂氏37度 観測史上最高に決まってる。どうなってんの?
なんかよくない流行り病が迫っているような 嫌な暑さが続いている。そんななか、今日は幼稚園の帰りにショッピングしている母親に一生懸命、なにかを訴えている男の子に出会った。なにも聞こえないとばかりに母親はZUTTO、無視している!? しかし彼はひるまない。どうも同じ組の友人が自分に嘘をついた事を訴えているようだ。

幼子よ、その調子だっ!!
寿司屋では新入りじゃなく親方が修行をしているようなこの世の中を何十年も生きて抜いていかなくてはならないのだ。ガンバレー!!世の中というのはそんなやつらが圧倒的に多いのだ。無視されても食事をもらえない子より、毎日殴られてる子より、全然ましなんだから。ママが返事するまで怯まず、に訴えつづけるんだよー!!。強く生きてねー!! おばちゃんは君の言ってること正しいと思うよ。おばちゃんは聞いたからねー、ガンバレ!!ガンバレー!!!!!!!!!!

2014.6.3

 

2014. 6. 2
久々の「両手に花」の旅、新潟県 岩室温泉 に2泊、お昼前には東京に戻った

もはや、燕三条地域で、ライブ演奏をしたことがあると胸はって言える演奏家は「五十嵐モーターズ」に出演した者のみであり、それ以外は モグリかシロウトである。と、私は声を大にして言いたい!

オーナーも 企画制作してくださる方々も、PA担当者も、そして勿論、お客様も、皆さん音楽好きで、それゆえに、ちゃんと聞く耳も持っていらっしゃる厳しいリスナーなわけで、その上大きく両手を広げて、到着する私たちを待っていてくれて、目と目があった瞬間から帰りの新幹線まですごい量のWELCOMEエネルギーが空間をたたえていてそれは絶えることなく、泉のごとく湧出している。まさに岩室温泉のごとくであります。岩室温泉は1700年初頭に湧き出した温泉で、ものすごい効く。よくよく考えると、どこに効くのかがわかっていないんじゃないか、でもそーんな事関係ないねと思ってしまうほど効いちゃって、湯上がりには身体はグニャグニャになり、頭脳はボンヤリしちゃう。汗が吹き出して、クーラーの中に入ってしまいたくなる。ん、?それって涼しいわけはないと気がつくまでに数分かかります。もう、ね、効いちゃうんだ。だから 演奏前は 岩室温泉浴は禁止と厳しく自分に言い聞かせている。もう着いたらすぐに入りたくなっちゃうからね。

そして、welcomeエネルギーの中で、「両手に花」の演奏は皆さんをして、ほんとに来てよかった、やってよかった,との大賛辞の言葉をいただき、 ワクワク度いつもの数倍になってる私は調子にのって心から歌を歌っていてよかった、まだまだ歌うぞと気を良くしているのであります。

皆さんありがとう。
美潮ありがとう。
渋谷さん、ありがとうございました。

2014.6.2

 

2014. 5. 29
1996年に見た映画、リュック・ベンソンだったね。モンドシャワン人が忘れられなくて、火 水 土 風  にもう1つ 愛 がなくてはだめっていう事がすごく良いなーと、音楽は愛であるとの私の主張に則り、5番目のエレメントで音楽で私達は 地球を人類を救いたいと
「5TH Element Will」

と、今のバンド名に。

昨日はアラバマのマッスルショールズ にある FAME studio と Swampers に関する映画の試写会を見たよ。7月にロードショー始まるよ。音楽関係者は絶対に見た方がいい。
「人間は不完全なもの。」その考えこそが現代の音楽に必要だ。
と語った最後のスタジオ創始者の言葉に感動したよ。

2014・5・29

 

2014. 5. 27
私が生まれた1954年
ビキニ環礁 水爆実験で第5福竜丸が被爆

自衛隊が発足

三島由紀夫「潮騒」出版

そして マリリン・モンローが来日記者会見で「寝るときには何を着ますか?」の質問に「シャネルの5番」と答えた、その発言に日本中がホーッ、えーっ?はぁ?それなに?とその後長きにわたり語られることになった。

戦後という時代最後の年といわれている。

いまだにモンローと三島以外はずーっと戦後のまま引きずっているではないか?と考えるのはきっと私1人ではないでしよう?

モンロー、素敵。

2014.5.27

 

2014. 5. 23
エンジェルカード

30年ほど前に友人からハワイ土産だよ、と頂いた品だ。
今もあるのかな?私が10代の頃使ってた、英単語記憶カード、(2×5、8cm位の長方形)と同じ形状だけど表は1つの英単語、裏は天使の絵だけが左端に書いてある。全部で50枚、トランプの「神経衰弱」の要領で裏にして混ぜて5枚選び、表側の言葉5種類から 主に心配事を乗りきる指針を自分で考える。
と、まぁそういう 遊びとも占いとも言い切れない、ニューエイジ全盛時代の産物だ。

しばらくたって、50枚に書いてある言葉は全て ポジティブな例えば harmony,release,synthesis,等々 5つ組み合わせると 「なるほどそうか、じゃ今日もガンバってみよう!」
とか、「そうね、じゃ苦手なあの人にも声をかけてみよう」という心持ちになれる好きなキットだ。
何億人もいる私達人類。

その中の1人の自分が一生に出会い、言葉を交わし、家族や仕事仲間闇の友人となれる一握りの同類たちを自分自身に対してと同じ気持ちで、希望を叶えたり悲しみを分かち合う事が当たり前に生まれつき組み込まれている進化した人類がそろそろ出回っているかな?
何てのは、まだまだ甘い希望だったのか!
20代の女性3人が鉄パイプまで使って1人の女性をなぶり殺したというニュースに腰が抜けそうになった。何か足りなかったの?
何が欲しがったの?

gratitude 感謝
simplicity 質素 愚かさ
responsibility 責任
openness 率直
tendeness 優しさ

今日のエンジェル5人から。ゆっくりと考えてみる。
2014.5.23

 

2014. 5. 22
現在 東京はすごい雷鳴です。よっ、待ってました。なぜかって?
今夜は久々の RIZE のライブなんだよ。
実はさ、親だから、黙ってたけど、私はRIZEkの 大ファン RIZER なんだよ。
親だからってさ ファンだというのはおかしいという風潮は如何なものか?
私は4年ぐらい前の、名古屋ダイヤモンドホールのライブで 大ファンになった。今夜は楽しみだなー。
ねぇ、どうにもいい雷だねぇ。

2014. 5.22

 

2014. 5. 21
2004年 12月1日
荻窪ROOSTER へ向かった。
ダメもとで岩田くんにバンドをやらないかと誘ってみる。私の50歳の 誕生日だった。この1年は私の今までの人生で最高にヘビーな年だった。1月からの 11か月もう立ち直れないのではないかと落胆に次ぐ落胆に終止符を打つべく最後の1ヶ月で何とかしたかった。
高田エージ率いるSuperGooooood!にguest出演した時にはじめて岩田の存在を知ったといっていいだろうな。その何年か前に「Vintageguitar file」という年代物のギターを使って山岸潤史と森園勝敏が中心となって2枚組のCD制作をしたとき、「Good mornig Mr Marting」 アコースティックギターも良い音だったが、その声の繊細さにこれは誰かな?と思ったのをよく覚えている。森園くんがアコギはコイツしか居ないと太鼓判を押していたのもよく覚えているが、SuperGOOOOODの岩田くんとあのCDの岩田くんが同一人物だとわかったのは何年も経ってからだ。
その年は自粛に次ぐ自粛自粛の年だった。荻窪Roosterの場所もよくわからない。具体的な予定もないのだから勇気を出してもなんといってバンドをやろうといっていいか、わからなかった。とにかく来年へ持ち込まぬよう立ちはだかる壁を打破したかった。その日のライブは岩田のバンド。四人編成だったと思う。横浜サムズアップを根城に高田エージとその仲間たちは次男KenKenをベーシストとして育ててくれた大恩人達である。岩田もその一人だ。私は彼のストラトキャスターの音色に惚れ込んでこの人しかないなと確信していた。
荻窪で迷って店に着いたときもう演奏は始まっていた。影に隠れているつもりだったが、何せワンボックスかーのような店内たからね、いきなり「驚いたことに今日は姐さんが来てくれました」と岩田に呼ばれた。「紹介します、金子マリ」「Root66」が始まった4番まで歌ってピアノソロになったとき、よし、今だ後32小節しかないし、岩田くんの耳元で「あのさ、バンドやんない?」とやっと言ったものだ。「いいっすよ。」2つ返事だった。
やったー、やったーこいつ良い奴だな。よーし来年はきっと良い年にして見せるぞ。岩田ありがとうホントにホントに嬉しかった。気持ちのよい男だった。大病を患ったとは言っていたが、まだまだこんなに早く逝ってしまうなんて全く思わなかった。偏頭痛になるとどうしようもなかった。背は高いが丈夫そうではなかった。そして50歳12月から丸9年たった9年だよ岩田。その夜バンド名を決めた。と思う。

2014.5.21

 

2014. 5. 20
人生で2番目に酷い風邪をひいたよ。WORST 1 は MIAMI 'fl で「香港A型」ウイルスに感染したとき。40度もの高熱が10日続いた。部屋を真っ暗にしておかないと、フロリダの燦々と降り注ぐ太陽の光がカーテンの隙間からたった1cmでも射そうものなら激ッ激激ッ頭痛 頭が割れるようなショック。1986年、日本で香港A型に感染したベーシストの バカボン鈴木氏によると その症状は 「脳髄膜炎」と診断、即入院生死にかかわると説明を受けたそうだ。
しかし、1986年U.S.A.Mainland,では DRUGSTOREで 「Tyrenol」(市販の頭痛薬)買って下さい。って、ちょっと待ってよ、手振り身ぶりで症状を訴えても 「あー、なーんにもできないから、とりあえず眠ることだ」の 一点張り。3回目の受診時は40度10日目だった。
あの超先進国で、絶対に怒鳴らずまず子供たちの言い分を聞いてくれる一寸ウォルト・ディズニーに似てる電化生活者が父親のホームドラマ「パパはなんでも知っている」や最先端の医療器機に囲まれ鋭敏な技術と繊細な性質をもつ外科医の日常を描いた人間ドラマ手術室何て見たこともない時代の外科医の心模様かー、進んでいるなー。「ベン・ケーシー」等々幼いときからこんな暮らしがあるのか!?と憧れのハワイ航路だったあのU.S.A.のMD は こともあろうか、いや、あろうことか「アマゾン奥地のマジナイシからもらったという 、水」のようなものを特別にッ、パッパっと指先でわたしにかけながら「この後はあなたの体力と生命力とウイルスとの勝負だ。
頭痛薬無くなったらDRUGSTOREで買いなさい。って、今も40度あるんだから、嘘じゃないんだから、起きられないとこやっと起き上がってきたんだってば。しかし処方はマジナイシの水をかけただけ。この世の果てで「死ぬかもしれないよ。」と宣告されたのだ。あのU.S.A.のMD が3回の受診時に3回ともいったこどはたった1文「帰りにDRUGSTOREでTyrenol買いなさい。」だけだった。これはジンシュサベツだ。ヤンキーのイエローモンキー扱いだな。戦後41年たってなお我々を支配している証か?こちらより遅れてるでしょうよ、遅れているだろうが、心を育ててある日本では「脳髄膜炎」出来る限りの治療法で 生きる方向へ方向へと丁寧に、慎重に対処した結果2ヶ月ぐらいで退院できたと言う。
私は水を飲んでも吐いてしまう、もう良くなったかなとおもうと高熱が、を繰り返し、2ヶ月ぐらいでやっと熱はおさまり、眠れるようになった 8kgも痩せたが、しかし、サベツにもめげず自分の体力に自信を持った。生命力を誇りに思った。治療を受けることことは叶わず、しかし Tyrenolとマジナイミズだけを味方に、たった一人で生き延びたのだ。ん?
思い返すに私はこの2回以外には風邪引いたことない、かな?。しかし2回引いたのであるから バカではないと思う。
今思い出した。あのMD 「香港A型」のこと「台北インフルエンザ」と言っていたぞ。
ジャップの病名なんて何でもいいし。ってことだな。やはり、、、。
ツアーから戻った先週はずっと寝こんでしまったです。それにつけても 丈夫な身体を授けてくださったお父さんお母さんありがとうございます。

2014.5.20

 

2014. 5. 14
いつもそうだ。決断迫られたときにピカッッパッキーンと全身全霊で、いったいどこから発信されたのかもわからない根拠のない「あなたにはできる。」という素質のミラクル光速波を受信、準備も持続力も忍耐力もない私の核である魂という「生きていく毎日のエネルギーの源」の枯渇しそうなタンクを一瞬で満タンにし、私は「うん、できる。」と、うぬぼれ直感。
「やりましょう」と答える。 迂闊である。愚かである。いったいどこのどいつが私にミラクル光速波をとばしたというのだ?誕生日占いの12/1生まれの長所が「ウキウキしてる」からか。発信元不明で裁判所にも訴訟を申し立てることもできない。ガッツなんか石松かトータスに任せときゃいいんだ。責任者呼んでこーい等々、、、「うぬぼれ直感」を信じて疲れきった時はいつもこんな気持ちになる。
そういえば誕生日占いの短所は「消耗しやすい」だった。今日は休養が仕事。

2014.5.14

 

2014. 5. 12
ツアーの帰り道品川から直接行った町内の寄合が〆まると、近所の大工さんから湯豆腐を用意したので、とのお誘い。遠慮なく夜分に伺い、最近の町内の出来事に一喜一憂大笑いして、12日未明10日振りに帰宅。
久々の我が家のデスクを見るとあれ?綺麗に咲いている鉢植えがあるね。「いつも ありがとう!! {Peaceマーク}kenken」と小さなカードが添えられていた。
ダイニングテーブルにはサクランボが可愛く一粒づつ金色の箱中にチョコレートみたいに詰めてある。んー?HAPPY MOTHERS DAY? 長男夫婦の名前。
去年まで「母の日おめでとう」というメールをくれてた子供たちである。
私はお目出度い母なんだなーと毎年一人で苦笑していたけれど、初めて「ありがとう。」と 言ってくれましたねー。
ありがたくその言葉いただいとくね。その後、ATGアーカイブス新藤兼人監督、出演の「讃歌」を観る。そろそろと夜が明けていく。そうだ、洗濯機まわしちゃおうっと。
2014.5.12

 

2014. 5. 11
9日ぶりに旅から戻る新幹線から。今年の春のツアーも事故もなく無事終了いたしました。ありがたい。
5thのツアーも今年で10回めではないだろうか?
祝春一番に呼んでいただけるんだから近隣でライブしようと思いつき、事務所のない私はメンバースケジュール合わせ、ライブハウスのスケジュールの空き日との兼ね合い、ギャラについて、宿泊ホテルの予約も全部一人でやってきた
スムーズに進めるには半年、6ヶ月前には決めなくてはならないことがやっとわかった。
しかしこれは達成感のあるやりがいのある事務方の仕事であり、それなりに納得できたライブとなった夜には慣れないことで皆に迷惑をかけてることもあるだろうにうちのバンドのメンバーにおかれましては文句1つ言わずにほんとありがたいなぁと、こんないい演奏をする人達はやっぱりちがうなぁと、あー、5thをpresentしたことに、有頂天になってしまう金子です。
さぁ品川に着いた。これから町内の寄合にいってきます。

2014. 5. 11

 

2014. 5. 10

気がつけば18歳でバンドデビューしてから今年で42年経つんだなぁと、どうみても厄そこそこって事か、ってなに言ってんだ私は。
5歳のとき、いじめられっ子だった金子は自分の気持ちを伝えるのが下手でどうしたら友達ができるかなぁといつもブランコで一人寂しい毎日を送っていたけれど、あるきっかけで「そうだ、しゃべるのが下手なら歌を歌って気持ちを伝えよう!!」と思い立ち、毎日はじめて聞く歌を1番だけでも覚えることにした。
童謡、流行歌、軍歌、民謡、端唄に至るまで初めて聞いた歌はなんでも。、それからはブランコで1人の時間が有意義な練習時間となる。
「歌は友達」だったな。時間はかかるけど「願いは叶います」って霊能者か手相を見る東京の母かおまえはーっ!! いやいや苦節55年、ライブの度に新しい友達が増えていき、毎日記録は更新されているわけで、強く心で願った事が実現している経験者は語るっていうだけのことである。
孔子曰く「60にして耳従う」という名言の意味を探りながら心浄土な日々送りたいとまーだ願う私は、還暦を迎えてなお、もちろん叶うぜーと楽天イーグルスな毎日なのだ。
それはすでに心浄土な日々を送っていることを見失いがちな凡人のあきれた願いである。

2014. 5. 10

 


COPYRIGHT (C) 2014 KANEKO MARI ALL RIGHTS RESERVED.
当サイトの一切の事項に関し、本文書の一部・全部を転載・複写する事を堅く禁じます。